演劇
思いはどこにある。
社会という状況である。
わたしはわたしだけでいきることはできない。わたしはたくさん集まるわたし(私たち)のなかでいきている。そのなかで衣食住という生命保持活動(生活)をしなければならない。
大人になることとはこの生活自立することが維持しつづけることである。これがまあやっかいであり、この有り様をどう定義することで大人であることが変わってくるが、ここでポイントにしたいのは、そういう社会規定関係のなかで、少なくとも存在しつづけているということだ。
劇団あららぎ「彩街-SAIGAI」はある探偵が依頼された謎をときながら、実はこの世界があらかじめコンピューターで支配された世界で、自分たちもこども兵器としてつくられたものだという物語であったとみた。タイトルの漢字と裏腹によみとしては災害と思わせるものには、作者の思いが隠されている。それはなにげない自分たちの存在はみづからの意思で自由にいきているようにみえと、そうではなく、そんな意識とは関係なく、この社会に作られているなにかで社会に有効的に使い捨てられるものとしてあることだ。
自分たちの20代よりも世間の効率・功利は暗黙の絶対性になっていて、派遣切りや失業によるホームレスも悪循環になっていて、薬物売買の末端の悪循環も同じようなすきまのない深刻さをうみだし続けている。それが経済活動というように。
話は脱線つづけているが、さて、劇団あららぎはそういう状況や脚本をどうしたのかというと、残念ながら話をなぞらえていたなかでの、役づくりでしかなかった。一生懸命さがないわけではない。かれらの現実感のなかでやろうとしていたのであろう。劇団を意識したわけだから、少なくとも個人だけではない演劇の場が考えられたと思われる。
さて、網のなかに蝶はいるのかという演劇命題にひっかけながらいうと、いるということがいえるだろう。効率、功利が機能しつづけるほどわたしやそうではないものをみるのだ。ただし、それは網をあけてはいなくなる、いないのだ。
網のなかをみて蝶はいるのだ。河野さんのミューラ=リヤーの錯覚にあるようにわたしたちはないものにないとは認めないものが生まれてくる。あるもないも同じ認知のもとといっていいのだろう。
少し強引に話しをすすめているが、演劇という人間集団行為には幻想領域において、存在の安定を保つのである。
演劇はこの幻想領域において、現実に対してなにを提示するかでその行為そのものが決まってくる。あららぎの行為はなにかを現実に対してということより、この脚本=物語に対して超えてくるものはみえなかった。
それは演劇をより細部化していることにすぎなく、それはこの幻想領域に同着していることだろう。いま若者たちがより現実に住めなくなっているこころの声はますます芝居の表現の一部としては表し続けているかもしれない。
でも、演劇がなにであるのかはもっとその行為の検証がいるように思う。これは次回、夏休みの宿題のようになっているが、劇団どくんご「ただちに犬」の劇感想からすすめていこう。
| Copyright 2009,12,31, Thursday 08:44pm mukawa | comments (0) | trackback (0) |
